●日本にはいないタイプ
和製ジェームズ・ディーンとも呼ばれた日活の映画スター、赤木圭一郎が21歳で事故死してから、今月21日でちょうど50年がたった。
逆三角形のたくましい身体、哀愁を漂わせるロマンチックな風貌…。
夭折(ようせつ)した赤木の人気は今も絶えることがない。
日活撮影所の先輩として親交があった宍戸錠(77)は、「日本にはいないタイプの俳優だった。いまだに惜しい」と振り返る。(岡本耕治)
◇昭和33年、東京・調布の日活撮影所で、宍戸は初めて赤木を見かけた。
「ピンクの半袖のシャツにジーンズ、ゴム草履で歩いていた。これまでの俳優とはどこか違うな、と思った。
呼びつけて『お前、かっこいいよ、(上に)いけるよ』って言ったんだ」
以降、2人は先輩後輩の立場を超えて仲良くなる。仲間を交えて連日のように飲み明かした。
赤木は、ハリウッドスターのトニー・カーチス(1925〜2010年)にどこか似ていたので、トニーと呼ばれた。
「おれは最新の洋画をよく知っていたから、トニーは西部劇やジェームズ・ディーンの作品の話を聞きたがった。
おれはおれで、悪いことを教えたり、壊れた車を売りつけたりした。そんな関係だよ」
2人は昭和35年の「拳銃無頼帖(ぶらいちょう)」シリーズで、敵対する拳銃使いと殺し屋の役でコンビを組む。
「あいつは運動神経はよくなかった。でも、だーんって互いに撃ち合って、さっと転んでよけてさ。
そういう動きがすごくかっこよくて、うまいんだよ」
「霧笛が俺を呼んでいる」(35年)、「紅の拳銃」(36年)…。
赤木の人気は高まり、日活も石原裕次郎や小林旭に並ぶ“第3の男”として期待を寄せた。
36年2月。宍戸は撮影所の大通りでゴーカートに乗って遊ぶ赤木を見かける。
「『けがするなよ』と声をかけて食堂に入ろうとしたら、どんって音がした。軽い音だったんだぜ」
振り向くと、ゴーカートが倉庫に激突していた。宍戸は走った。赤木は戸板に載せられて運び出されるところだった。
「意識がもうなかった。その顔を見て『こいつやっぱりかっこいいな』って思ったのを覚えている」
重傷を負った赤木は、21日に永眠する。
「わずか3年、実質2年くらいの活動期間で、いまだに根強いファンがたくさんいる。
もっといろいろなトニーの演技をみたかったな」